ベジャールのワークショップ・Cantate51を踊る【バレエ】

ベジャールのワークショップ・Cantate51を踊る【バレエ】

どうも、奴(やっこ)です。

自分は今、バレエ留学中であり、海外のバレエ学校に所属する身である。

海外バレエスクールでは度々、ある専門のゲストを迎えて、ワークショップが開かれる。

先週には、クラシックバレエの革新者とまで呼ばれたバレエ界の巨匠、「モーリス・ベジャール」のワークショップを受けた。

お呼び立てした外部講師は、フランスの方で、これまで様々なベジャール作品を舞台で踊ってこられたベテランダンサーであった。

この記事では、主に以下の3項目

  • モーリス・ベジャールについて
  • ワークショップの内容と様子
  • 「Contate51」における芸術性

についてを、受講した感想を含めて書き表したいと思う。

モーリス・ベジャール(Maurice Bejart)

モーリス・ベジャールは、バレエダンサーであり、後に振付師として名を馳せた人物である。

1927年1月1日、マルセイユに生を受けたフランス人である。

14歳にバレエレッスンを受け始め、その約4年後の18歳には、地元マルセイユのオペラ座にコールド・バレエとして入団した。

それからも多くの有名なバレエ指導者に師事し、その中で様々な振付を行った。

初めに発表された作品は、彼が19歳の頃に振付した「小姓」である。

1954年にエトワール・バレエ団を結成(57年にはモーリス・ベジャール・パリ・バレエ・シアターとなった)

そうしてそこで本格的な振付家としての活動の狼煙として行った「孤独な男のためのシンフォニー」の公演で注目を集めた。

ベルギー王立モネ劇場の依頼で振り付けた「春の祭典」は大成功し、いまでも有名な作品として残っている。ちなみに、これは鹿の交尾から着想を得たのだという。

そこへ出演したダンサーを集め20世紀バレエ団を結成し、それは今では世界の名だたるバレエ団の一つに数えられるまでになっている。

他にも、その後に発表した「ボレロ」などはあまりにも有名である。ジョルジュ・ドンが円卓の中心に踊る様子を映した映画で、不朽の名作と言われた。

また東京バレエ団が近頃公演をした「第9交響曲」なども彼の作品だ。

ベジャールは東洋文化にも興味があったらしく、東京バレエ団のために、歌舞伎演目として有名な「忠臣蔵」を基にして「ザ・カブキ」を制作したこともある。三島由紀夫を主題にした「M」という作品も創り出した。

以上の功績から、彼は「京都賞思想・芸術部門」を受賞している。

1987年になると、彼は拠点をスイスのローザンヌに移し、バレエ団をベジャール・バレエ・ローザンヌに改称した。

そこでも次々に話題作を生み出し続けた。

2007年、モーリス・ベジャールは80歳で死去した。

「80分間世界一周」の振付の最中だったそうである。

 

ワークショップの内容

ワークショップは1週間、ベジャール作品に精通した外部講師をお呼びして開かれた。

それは、他の講習と同じように、対象とする振付家が創作した、ある一作品の練習を行う形式で進められた。

今回はバッハの作曲した、教会カンタータという礼拝用の声楽曲の一つ「カンタータ51番(すべての地にて歓呼して神を迎えよ)」に合わせて踊る、ベジャールの「Cantate51」を練習することになった。☟☟

ークショップの流れ]

このワークショップにおける作品の練習と言うのは、実際にバレエ団で行われるように進行されるものである。

まず男女に分かれて、講師がそれぞれのパートの振り付けを行う。(内何人かは、1か月ほど前から上添付のビデオを配布され、各々自分で覚えるよう校長に言われていた)

次に細かな動作の指導を受けた。それは例えば正しい振付のための修正以外に、何を目的にしてどのように体を使うかという指南であった。

4日目の木曜日には第一キャスト・第二キャストに分かれて全体の通しが行われ、作品を踊るということの流れを理解した。

そうして最終日にはより細緻なアドバイスを受けながら、両キャスト入れ代わり立ち代わりして作品を初めから終わりまで踊り切った。

――これが全体のワークショップの一連であった。

一週間、つまり5日間で上の20分近くの作品を踊り切るまでしたのである。

なかなかに厳しく集中力を必要とするハードな内容のワークショップであった。

そうしてベジャールを学ぶにおいて充実したクラスであったことは言うまでもない。

導内容]

振り付けの時には、音楽と合わせてマーク(一部を抜粋し、力を抜いて踊ること)を振りの確認として行うのだが、その際、基本的に脱力しておざなりに踊ることは許されなかった。

マークと言えば誰もが手足を伸ばし切らないような簡略した確認動作を思い浮かべるものだが、

講師曰く、「振りや技術の定着しない内に中途半端な踊りをすると、その半端な動きが身に沁みついてしまう」らしいのだ。

言われてみればそうかもしれない。今までにそう感じたことはなかったし、意識してもそうかどうかは自分にははっきりとは分からない。指導者の視点と言える。

とにかく、だから我々が練習を行う折には、ほとんど毎回全力で踊ることをしたのだった。

細部に与えられるアドバイスでは、動画を見るだけでは伝わらない動作の趣旨を教えてもくれた。

例えば手首をクロスして垂らし下げる場面は、自身の腹を割いて見せることを意味しているのだという。音楽の題名から考え及ぶように、神の懐胎に関係しているらしい。

そのように振付の内容を知ることで、動きはますます生き生きと表現を始める。

また技術面の指導では、終始の踊りに伸びやかな動きを求められた。

しなやか且つ緩急のある舞踊のために、伸ばした腕を与えられた音ぎりぎり一杯まで伸ばし続け、素早く次の動作につなげることなどを指導された。音楽との融和が重要であった。

加えてベジャール作品は、それぞれの動きの形が特徴的であるので、どのような形状を意識して全身を運ぶべきなのか、それについても言及された。

指先まで神経を尖らせる必要があった。手足・胴体・頭の合間に生まれる空間にすら気を配り、表現の一部として扱うことを教えられた。

自分はこの作品の中で、終始踊りっぱなしの中央の男性の役割(天使)を担当したのだったが、全てを通して踊ることは、筋肉と呼吸器にとても負担のかかるキツい試練だった。直前には必ず意気込んだ。

特に、楽曲全体の牽引を担う冒頭部分の男性の踊りは激しく、ダイナミックな動きで構成されているから、すぐに息も絶え絶えの状態になった。

後半になると、ポーズに留まっている最中に全身に正体不明の痺れの広がっていくのが感じられるほどだった。

次に来る中盤の女生徒とのパドドゥでは、音調が変わるのに従って、踊りも空気を乱さない清澄な動きに変更しなければならない。

激しいパートの直後に切り替えることをするので、例えば片足立ちになるところなどは、筋肉の震えや荒い呼吸のせいで容易にはいかなかった。

それでも水中に踊るような緩やかな動作を行うために、ここでは主に体を丁寧にコントロールすることが重要だった。

続く女性のソロも終わると、コーダが始まる。

「ハレルヤ」を頻繁に高らかに歌い上げるこの場面は、奥に登場する男性ソリスト、両サイドの女性ソリスト、中央の男女が華やかに踊り、舞台を祝祭的な雰囲気に満たす部分である。

中央の男性は合間にあった女性ソロのお陰でこの頃には息が整っている。それほど荒々しい振付でもないので、比較的落ち着いてコーダを踊ることが出来た。

中央の男女と両脇の女性たちとが交互に踊ることをする振付になっており、そうして静止している時には、正しい形を表現できているかどうか留意しなければならなかった。

左右対称のポーズの多用される本作では特にペアと息を合わせる必要があった。(例えば、男性が上手に足を上げ、女性が下手に足を上げるときなど。脚の高さを揃え一直線にする)

外部講師も終わり際に言っていたが、この作品は非常に難易度が高い。プロも苦戦するほどだそうだ。

激しく辛い振付もそうだが、この音楽・踊りの持つ魅力をいかに現出して見せるかという踊り方の工夫こそが困難を極める。ダンサーたるものここに尽力したい。

実現するには、全身の神経を相当敏感に張り詰めなければならないだろう。

今回のワークショップに自分が得たのは「ベジャールを踊るということの感覚」と「ベジャール作品の提示するバレエの芸術性」である。

この先に生かそうと思う。

Cantate51に考える芸術性

※以下は奴(やっこ)の主観で書かれる考察である。そのため事実とは異なる部分があるかもしれないけれど、芸術とは本来主観によって形を成すべきものと思っているから、これも一つの作品の1面であると受け止めていただけると幸いだ。

 

「Cantate51」を鑑賞・練習して率直に思ったことは、それが動きの中に見ることのできる”身体の形”に美しさを持たせている、ということだ。より噛み砕いて言うなら、人体にあらかじめ備わっている自然美を全面に表現しているということ。

それは上の動画を少しでも観てもらえれば分かる通り、所々に通常のクラシックバレエには出てこない独特な体の使い方のあることから感じられるものだ。(手の平を上に向け、頭上に鞭打つような動作をする場面など)そうしてそれらがいずれもベジャールの考慮の痕跡のある洗練された形であることから理解されるであろう。

また舞台装飾の簡素なところや、時折彼らが形状を強調するように静止したり留まってみせるところからも形の美への積極性を感じるのである。

実を言うと、かねてより自分はこれに賛成する考えを抱いていたから、今回のこの「Cantate51」の魅力に触れた時には、何か妙に納得のいくところがあったものだった。

いかに肉体が美的に動作するのか。それを表す試みを舞踊・バレエと捉えていた。(衣装のほとんどがタイツなど肢体のラインが浮かぶようになっている事実こそが、人体という自然物からの美的享受を模倣しようというバレエの意図を証明している)

そうして、人体の美をより深く掘り起こしみせるためには、形式主義に凝り固まっていてはならないとも考えていた。

だから既存の型から逸脱して、のみならず新たな形状・動作を提示してみせるこの作品には、奴(やっこ)の美学の実践を目の当たりにした気分にさせられたのだったが、

一方で、その割に期待していたような感動を得ることは出来なかったことが問題提起される。

そう、正直に告白すると、自らが踊っている最中にも、これを美的と信じて踊ることは難しかったのである。

――この肩透かしこそが、今経験に獲得した最大の戦利品であるように思う。

であるならば、平生の主張に対して反証もしくは部分的な否定を立てなければならない。

以降にこれを書いてみようと思う。

まず思うのは、肉体美の限界である。

人体の美しさは鑑賞者の想像・感懐をそこまで膨らまし得ないものではないのではないか。

例えば、他の芸術を想起してみよう。

絵画や写真、映画、音楽、文学――。そのどれもが我々に、体験した物事以上を想像させ気付かせるだろう。熟慮を強制するかもしれない。

これこそは作品の持つ意志であり、人の美的感情を揺さぶる役割の中核を担う働きだと思っている。

人間は鑑賞を行う最中、無心ではいられないものだ。というより、何に注目しようとも同じことと思う。

注意を向けるわけだから当たり前なのだが、つまり芸術とは、注目される物質に能動的美意識を込めることで、鑑賞者の投げかけ・思考・享受的美意識に対して照応する仕組みを成しているものと考えられる。

であるからして、芸術の美しさの本質とは、音楽そのものや絵画そのもの、文章そのものにあるのではなく、それを鑑賞して覚える各々の意識にこそあるものではないかと提言するものである。

思えばいつも、音や色や言葉の連続に心動かされるのではなく、それらに触発され心中に創造される茫漠とした表象に向かい合って、それから震えるような感覚が襲うのではなかったか。

また、絶対的美が実現されないのはそれ故ではないかと思う。

美的感情より先に人の想像がある、すなわち美しさは思念を土台に成り立っているのだから、その性質上、言わずもがな個々の主義思想にはっきりと左右されるのである。

……さて長くなったが、

このように我々は鑑賞に得る感懐に芸術を見出すわけなのだが、こと人体に向かってはこれを発生させることがことさら難しいように感じるのである。

なぜなら、その他の芸術が人を取り巻く環境に関わる物事で構成されているのに対して、肉体とは大概の人にとって紛れもない”主体”として認識されるからだ。

人にとって肉体とは何事かを成す前提であり、日常の意識からほとんど排除されていると言ってよい。

林檎を持ち上げる時、我々は林檎・持ち上がった結果などに注目する。そこへ腕の存在はなかなか加味されない。スポーツなどの運動にも同じことが言える。肉体そのものが目的にはされない。

これが何を意味するか。人の体というものが、(現実には逐次のあらゆる物事と接触しているのに)精神の中で外界の事物との間にかけ隔てを持つものであるということ。

要するに、人体の動作の美とはそれだけで完結されすぎている世界なのである。

肉体とは、有機生命と無機物との狭間にある不安定な存在だ。内側とも外側ともつかない。芸術とは外部から受ける解放の啓示のようなものであるのに。

そのため観る者の美的享受は舞踊の視覚的要素に対して働いた”その後に”未知なる想念へと駆り出されてゆきにくく、結果鑑賞者の美意識は舞台の上をとりとめなくさまよう羽目になるわけである。一種退屈な思いをする。

以上のことが、自分の考える肉体の形状・動作の美を中心に置くことの問題点である。

次にこの作品の(目指すところの)欠陥として挙げるのは、テーマ性の乖離だ。

ひとつ前の項目に書いたことだと思うが、ワークショップの中で我々生徒は作品内の動きに込められた意味を教えられた。

中央の女性が神を孕む母体となる処女であることを、中央の男性が神を授ける天使であることを。

聞いて初めて知った。作品を鑑賞しても、振付を覚えるために細かな動作を何度も確認して実際に踊ってみても、そうだとは伝わらなかった。どころかどんな解釈も浮かばなかった始末だ。ないも同然である。

これは作品に込められるテーマと舞踊の美しさとの分離が引き起こすのだと解釈される。

基本的に、芸術とはとある物事(音楽や絵画など)を媒介にして美的感情を伝播するものだ。

そうしてその時に重要なのは、別々に存在する、美意識と媒介との融和である。ただおざなりに組み込まれただけでは駄目で、美の内容と表現方法の内容とが互いに干渉し生かし合っていなければならないことはすぐに分かるだろう。

美しい言葉遣いで美しきを語る、美しい音色で素晴らしきを聴かす。

これを鑑賞する際に我々の中に生まれる美的感情には、内容と手段への賛美が含まれる。(文章を読んで起こった感動がその音韻へも向けられているように)

しかしこの作品のように、踊りに込められている美意識が踊りという媒介そのものから向かって来ているとき、関係は閉じて循環し、その他の美的要素をことごとく拒むのである。

先ほど肉体美は完結しすぎている、と表現したが、この作品にある自己追求性もまたあまりに純粋すぎるが故に何事も容易には入り込めないでいる。(どちらかと言うと、むしろこうしたメタ的美の方が、他のあらゆるしがらみを断つことを一つの目的にしているだろう)

音楽のための音楽、文章のための文章、舞踊のための舞踊――

これらに観念的内容を組み込むということは、美意識の中に観念即媒介でなければなるまい。

肉体美を駆使して観念を示すのではなく、肉体美こそが観念を内包し表現していなければならないのである。

より具体的に、この作品「Cantate51」について言えば、”神の歓呼”は振付として挿入するべきではなく、より一層直接的に、踊りを鑑賞して抱く美意識に込められなければならなかったと考えるのだ。

そんなことが可能だろうか?

今考えつく解決案としては、「舞踊を視覚的に表現するのではなく、より抽象的に伝わるような観念化をすることで、テーマ性との紐づけが可能になるのではないか」というのがある。

そのためには、背景や、照明など、舞台芸術としての創作を突き詰める必要があるものと思う。

この辺りは、現在世界で1番のモダンバレエ振付師と言われる「クリスタル・パイト」の作品が上手く演出しているように感じる。

が、これはまた別のお話……。

総括

モーリス・ベジャールのワークショップを受講した感想として色々と好き勝手に書いた。

ベジャールの作品をきちんとした指導の下に踊ったという経験は、この先必ず役に立つだろう。

上には今回練習した「Cantate51」への難癖のような考察を書いたが、

それでも自分のような生徒にとってベジャール作品には多くの学び取るべき美点がいくつもある。

これまでに書いたもの以上のものをどれだけ発掘し、舞台芸術・舞踊の美への自己解釈の陶冶へと繋げていけるかが重要だ。

研修生(プロの手前)ともなると、基本的な技術を忠実に身に着けることの他に、自身の中の美意識を独自に育み、それを積極的に表現していくべきだろう。

そうすることが、踊りの質を高めるということに違いない。

……といったところで、どうやら出番であるらしい。

いかねば。

…ピルエット心配だなぁ。