バレエダンサーが出来上がるまで【奴(やっこ)の場合】

バレエダンサーが出来上がるまで【奴(やっこ)の場合】

どうも、奴(やっこ)です。

題名には堂々と、まるで自分がプロバレエダンサーかの如くに書いたけれど、

現在自分は留学中・就活中のバレエダンサー。

海外バレエ団への就活は非常に厳しくって、なかなか難航しているが、恐らく自分はこの先バレエを踊って生活していくことになるだろう。

これは予感というより予測に近い。

もし海外バレエ団に入団できなくとも、これまで10年以上鍛錬してきた技術がまさか瞬間消滅するなんてことはないし、

また一方で別の職種に就くにしても自分は他に何も手札を持っていない。まじで。

以上のことを理由に、この一見傲慢な感じの予測は一応でも成り立っているわけだ。

だから安心して、当記事を「あるバレエダンサーが出来上がるまでの過程」を書いたものとして信用してくれると嬉しい。

とはいえ、自伝なんて大層なもんじゃあるまいし、偉人なんて大層な人間じゃあるまいし、長々と退屈な自分を語ることだけは避けなきゃなるまい。

一つのコンセプトを置いて、それを主軸に奴(やっこ)というバレエダンサーの習い始めから現在までの過程を紹介していきたいと思う。

そういうわけで今回は、今までの自分のバレエへの接し方・関わり方がどうあったか

バレエを続ける上で、いや他の習い事にしてもそうだろうが、モチベーションを保ち続けることが非常に重要になってくる。

「Yahoo!知恵袋さん」にも度々「バレエ 辞めたい」とか「バレエ 辛い」とか投稿があるくらいだし

だからまあ、参考になるかどうかはまるきり分からないけれど、「こんな人いるんだ、ウケるwタピオカ飲もw」くらいに気楽に読んでくれると良い。

役立つツールというより、よく燃える薪として、日々にくべてもらいたい。

バレエに縁のない方も、あのクネクネした謎の人種の実態、その一端を垣間見るでもするような心持でご笑覧いただければ幸いだ。

それでは。れっつら、ごー。


19年間のバレエとの距離・関係性

【4ちゃい】はじまりはコンテンポラリー

奴(やっこ)爆誕からおよそ4年。

多くの家庭でもそうだろうが、この時期は子供に合った習い事を探し始める頃合いだ。

だから自分もおぼろげにではあるが、いくつかの習い事を試した記憶がある。

水泳とか、ピアノとか。

それら「習い事やっとこうぜプログラム」の一環として、ある日自分は自宅近くのバレエ教室に、体験レッスンを受けに行くことになったのだった。

その近場のバレエスクールがコンテンポラリーの学校だったため、こうして奴(やっこ)はコンテンポラリーバレエなるものを始めることになった。

そして、それがまさかこんなことになるとは彼には知る由もなかった……。

コンテンポラリーバレエとは

バレエは、大きく分けると「クラシックバレエ」と「コンテンポラリーバレエ」に分類される。直訳すると「古典」と「現代」だ。「白鳥の湖」のような、動作の伝統を重んじた演目が「クラシックバレエ」にあたり、対してより自由な動かし方・舞台創作を行うのが「コンテンポラリーバレエ」である。

この頃の奴(やっこ)には、当然ながらまだバレエに対して明確な意識があったわけじゃない。

「好き、嫌い」を言ったとしても、それはバレエに向けるものではなく、習い事という新しい習慣に向けたものであったろう。

最近は尋ねられることもあまりないが、幼少の頃はよく「どうしてバレエを始めたの?」という質問を聞いた。

とはいえ無論、バレエに思い入れなんてなかった。「物心ついたらやってた」こう答えるようにしていた。



【小学生・低学年】3年間のチェコ移住。クラシックバレエの始まり。バレエへの無関心

ぶかぶかのスーツを着て臨んだ入学式。緊張と期待の入り混じった熱い気持ちを胸に、一人ずつ立ち上がって自己紹介をしていく。

今そこに華々しい小学校生活が始まろうと、

ェコへ移住しよう

始まるかに思えたけれど、そのすぐ1週間後、父の仕事の都合により、家族全員でヨーロッパ・チェコへ、3年間移住することになったのだった。

別に悲しい気持ちなんて微塵もなく、むしろたった1週間で姿をくらました特殊な奴、と噂されるのを想像して、そんな自分が誇らしくもあった。

「おとーさんの仕事の都合で(ドヤ)」と言って、秘密組織の諜報員にでもなったつもりでいた。

両親は色々大変だったろうが、子供なんてそんなもんである。

チェコでは日本人学校に通うことになった。生徒数が少ないだけで、日本の小学校と大して変わらない環境だった。

子供特有の怖気のなさで、割合簡単にクラスに馴染んだように思う。

また到着後すぐは、様々なアパートを転々としての生活をした。そうして数か月後に、快適な借家に起居することができるようになった。

なかなか移住先の住居の決まらなかったことは、今にして考えると不思議だ。何かあったのかもしれない。想像もしないが。

ラシックバレエを始めよう

チェコに来ても、バレエと母(ピアノ関係の仕事の人)から習うピアノは続けることになった。

そうなると問題はバレエをどこで習うかだった。オーディションめいたことも行いつつ、

最終的に自分は「チェコ国立バレエ学校の幼少のクラス」ともう一つの「ある有名な教師のバレエ学校の幼少のクラス」。この2つに通うことになった。

そこで自分は本格的にバレエの王道、クラシックバレエを習い始めることになるのだった。

改めて読み返すとなんだか大層な肩書だけれど、多くの方が想像される無慈悲な競争というのは、もっと成長してから行われるものであり、子供の自分にとっては入学はそれほど大変なものではなかった気がする。

しかし、真に褒められるべきは母親だろう。自分のような小僧を連れて見知らぬ街を歩き回り、聞き知らぬ言語を話す異国人を相手に入学手続きを進めた。誠にエライ。はなまる。

さて、そうして生活環境が整い、習慣も固定化された。

それから自分は3年間「学校へ行き、終わるとバレエ学校へ通う」という生活を続けた。バレエには週に4回ほど通っていたろうか。二つのバレエ学校に交互に通い続けた。

レエに対する思い

正直に言うと、バレエは気に入らなかった

そもそもバレエを鑑賞しても良さなど分からなかったし、関心も起こらなかった。

両親にはよく有名なダンサーの出演する贅沢な舞台に連れて行ってもらったりなどしたが、毎回温かい劇場内の柔らかなソファの上で、すやすや安らかに眠ることしかしなかった。

しかし考えてもみてほしい、小学校低学年の男子である。血気盛んなクソガキである。

学校のクラブにてサッカーを遊んでいる方が何倍も楽しいということの不自然なことがあろうか。

時には母に激しく反抗した。口汚くバレエを罵った末に(驚くことに母を罵倒した記憶はない、多分)、ぶたれたこともあった。そうやって泣きながらバレエへと向かったこともあった。

これに関して、母を攻めまい。母はすでに自分をダンサーへと育てる気でいたのだろう。教師のおだてたことが手伝っていたかもしれない。

いずれにせよ、趣味ではなく修練として物事を習わせる場合には、親というのは時に子の癇癪を俯瞰し、全体のために子の瞬間の意思を否定しなければならないものであるはずだ。

育て親にとっては、ここは非常に難しい問題であろう。今はそう理解する。

だから感謝、というのはあまりに短絡的だけれど、間違っていた、エゴだったと糾弾などすまい。

ちなみに、この年齢の男子のバレエというと、「女子っぽい」とからかわれることへの恐怖心を伴うことで有名だろう。

実際に「バレエ?男がやるの?女っぽいw」と言われもした。

その度に自分は、「まだそんなこと言ってるの。遅れてる」と言い返すことをしていた。

実際そう思っていたし、だから彼らの嫌味を本当と信じることにもならなかった。鵜呑みにして女っぽいものだと考え、その方面からバレエへの負の感情を募らせることはなかった。

少々まとまりに欠けるかもしれないが、これらが、当時のバレエと自分の関係だった。

そうして小学3年生の終わりごろだったろうか、自分は慣れ親しんだ場所に、人に、手を振って日本に帰国した。



【小学生・高学年】帰国。初めてのコンクール。熱意なきバレエの弾劾。

帰国してからの生活は、再開というより、継続という印象だった。

3年も別の地に暮らしていたのだから、何かしら新鮮に感じられるだろうと、これからの小学校生活のことも考えながら、覚悟のようなものをしていたのだったが、

拍子抜けするくらい、日常の継ぎ目は平坦なものだった。日本にどう馴染んだのか、今じゃまったく覚えてないほどに。

レエを再開しよう

クラシックバレエを続けるにあたって、以前のコンテンポラリーの教室にはいかず、他のバレエスクールを探さなくてはいけなかった。だから母と一緒に多くのバレエスクールを巡った。

そんな毎回の体験レッスンを、実は自分は気分よく受講していた。

というのも、チェコでつちかった技術をある程度誇りに思って見せびらかすつもりでいたし、また海外から帰ってきたという個性に年相応に得意げになってもいたのだ。

レッスン生や教師、授業内容を値踏みするようなのも正直気分が良かった。

レッスン後は、互いの評価を母と話し合って、通うことに決定するかどうか相談していたものだ。

 

ただ、今思い返すと、自分はその時もっともな意見を述べるようで、その実文句ばかり言っていたような気がする。

確かに、この頃にはバレエは着実に奴(やっこ)のアイデンティティとして定着しつつあったのだが、

それでもやはり自分には、バレエとは辛いばかりの気に食わない習い事でしかなかったのだ。

いつかはどこかのバレエスクールへの所属が決まって、再び以前のような生活が始まるだろうとわかっていたけれど、

だというのにあの時の自分は、全てのスクールの欠点を言い並べて、このままいつまでもレッスンなぞ始まらなければいいのにと考えていたのだった。

無論、沈んだ太陽がまた昇ってくるように、バレエスクール生としての生活はやがて意思とは無関係に始まった。

レエスクール生としての生活

「学校へ行き、終わるとバレエへ行く」という生活は、チェコで行っていたよりも忙しくなった。

学校の終了する時間の遅くなったことや、交通機関での移動時間が増えたことなどが細かく影響して、日常は全体的に見るとやけに忙しなく感じられた。

日本の国のシステムが、まるで自分に慌ただしさを強要しているようだった。

学校から家に帰ると、宿題を済ませ、次にはまだ5時台の時間帯に夕食を食べた。毎日のバレエレッスンの終わるのは遅く、だから体力がもつように出発前に食べておく必要があったのだ。

腹を膨らませたら、母と一緒に自転車で駅まで。40分ほど電車に乗って、今度は駅からスクールまで徒歩で行く。

移動時間は合計で1時間15分ほどだった。

習い事をする多くの生徒が思うことだろうが、この移動がめちゃくちゃ憂鬱だった。着く頃には、鉄のカーディガンでも羽織っているように全身が重くなっているし、更衣室に入るとえらくくたびれたため息が出る。

「レッスンを受けるのは構わないから、この移動を何とかしてくれ」毎度そう思っていた。

レッスン時、スタジオの入り口には、多くの保護者が座って、子供の受講の様子を眺めている。母もその一人だった。

ちなみに当時の自分が何を思いながらレッスンを受けていたか言うと、別段クラスを嫌うでもなく、かといって喜んでするでもなく、ほとんど無心のような心持で受講していた記憶がある。

この頃の奴(やっこ)も、相変わらずバレエに対して憧憬めいたものを何一つ持ってはいなかったが、

バレエ教室でのレッスンとは単にバレエへの興味ばかりで成り立っているのではなく、もっと雑多な要因が絡まっているから、そのため極端にバレエレッスンを嫌悪することにはならなかった/出来なかったのだった。

例えば毎日のクラスは、他の男子スクール生の友人に会える機会とも捉えられ、ある時駅からスクールまでの道中の足を軽くした。

また時にバレエという要素をことごとく押しのけたとしても、毎回のクラスは”習い事”としてこなさなければならない一つの役割のように思われた。

これらが奴(やっこ)のモチベーションを支えた。

レッスンが終わると、暗い夜道を母と歩きながらその日のレッスンのおさらい・反省をする。道中、コンビニに寄って、ホットスナックやジュースを買い与えてもらえた。

他の男子スクール生と都合の合った日には、彼らと会話しながら帰った。

疲れた後のこの時間が好きだった。

小学6年生くらいになると、所属するバレエスクールの定期公演にて、主要な役柄を与えられるようになった。

とはいえスクール内の男子は少なく、競争があったわけでもない、大した感慨もなく配役表を読んだ。

それでも舞台で踊るのは楽しかった。

公演のための練習も好きだった。普段のレッスンよりもはしゃいだ気持ちで参加した。

ただこれをバレエへの好意と断じるのは早計というもので、自分は公演後の拍手を聞いて、打ち寄せる達成感に耳を澄ましながら、また先生から踊りの出来を評価されて喜びながら、

別にそれがバレエでなくてもよかったことを分かっていた。

ンクールに参加しよう

発表会の他に、小学校高学年の自分はコンクールにも挑戦した。

毎回のレッスンの後に、バリエーションを先生に指導してもらい、ついにコンクール当日を迎える。

初めて挑んだコンクールでは、なんと「116位」をありがたく受け取った。下から見て、数えるまでもない順位である。

今では笑い話にしているが、当時はそれなりに悔しかった。帰宅後は、目から水滴を落として風呂の水をしょっぱくした。

敗北したことへの単純な構造の悔し涙をこぼした後、次に押し寄せた波こそが非常に自分を苦しめた。

かんばしくない結果には常に反省がつきものであり、「練習が足らなかった」という戒めが後を追うものだと思う。

そして奴(やっこ)がそこまで考え至った時、自分は咄嗟に、”練習不足”と”バレエへの熱意の無さ”を直結したのだった。

バレエへの無関心が練習不足を引き起こした、という具体的な例は何一つ思い浮かばなかったのだが、

それでもその時のコンクールの結果は、実力不足は、どうにも自分の無関心をなじっているように思えて仕方がなかった。

そうして自分の趣向に有罪を言った。

しかし変えられるものではないし、無理に取り繕うことは別の弊害を引き起こすようにも思われた。

これから先、より奮起しなければならないというのに、自分の意志ではどうにもならない重りを背負っていることを知って、もどかしさを孕んだ悲愴感にみまわれたのだった。

これらが、コンクール後に落とした二種類の涙である。

出来事から日が経つと、当然「どうしようもない」と足踏みしているわけにはいかなくなった。

結果、熱意と成果を完全に切り離して考えるようになった。

「『好きだ、好きだ』と言って10回行った人物より、『嫌いだ、嫌いだ』と吐きながら1000回行った人間の方が上達しているものだ、間違いない」

行為を要求することで、自然な感情を許すことにした。



【中学生】怒涛のコンクール。海外バレエスクールへの短期留学。「バレエを辞めよう」

中学校生活がスタート。

勿論時間はないので、部活には入らない。というか、入ろうと思った部活の顧問教師には、習い事の多忙から拒否された!

山のコンクールに出場しよう

小学生生活の終わりから中学生になるまでに、参加するコンクール数はかなり増えた。

コンクールに出場するのは嫌いだった。

会場に充満しているあの静かな冷たい空気や、幕袖で自分の番号の呼ばれるのを待っているあの瞬間が大嫌いだった。宿敵のように憎んでいたといっても過言じゃない。

だからコンクール出場の案を持ってくるのはいつも母だった。

時折その提案を突っぱねたりもしたが、「必要だろう?」ということを言われると、反論は出来なかった。

これ以上食い下がったなら、「甘えている」という一喝が続くことが明白だった。現に甘えていたのであるが、何よりそれを明言されることを幼い自尊心が恐れたのだった。

「必要でしょ?」

その頃の自分にとって、バレエはもう五体から切り離しがたいものなっていた。将来のことを想像する際も、バレエの実力が重要な問題として影響してくるように思われた。

勿論、所詮中坊の考える将来なんて、まったく具体性のないおぼろげな想像ではあった。

ただ、これまでの道程を考えた時、兎にも角にもバレエを頑張らなくてはならない、そうでなくては将来困る、という予感がひしひしと伝わってきた。

だから、にが~~い顔をしながら、毎回コンクールに臨んだ。

年に4、5回ほど参加していたろうか。もっともっと参加する人物がいるというのだから驚きだ。正気を疑う。

コンクールでの実力は、回を追うごとにレベルアップしていった。

中学1年生の後期には、少しずつ、コンクールで入賞できるようになっていた。(自分は男子であるから、より競争の激しい女性部門よりは簡単に入賞できただろう)

コンクール出場のための練習が、その真剣にならざるを得ない状況が、実際に上達に貢献するものであったことを表している。

バレエの上手さとコンクールでの評価との間に直接的なつながりはないけれど、日々のレッスンをより深刻なものにするために、コンクールへの参加は効果のあることだと考える。

いつかダンサーになりたい、もっと上達したいと考える方には、コンクールの活用をにが~~い顔でお勧めする。

コンクールへの出場の必要性は、これら技術の向上の他に、海外バレエスクールへの留学機会を得ることができるところにもある。

自分は中学1年生の冬に行われた「YAGP」という比較的有名な大会にて、手違いのような好成績を収めた。

日本予選をギリギリで通過した後、世界中から参加者の集まるニューヨークでの本大会へと進出が決定した。

本大会でも、厳しい予選審査を通過し、決勝戦へ。

結局上位入賞はかなわず、TOP12入りで幕を閉じたのだったが、それにしても上出来だったと言えよう。

そしてそのコンクールにて、自分はアメリカのあるバレエスクールから、1か月の短期留学のスカラーシップをもらったのだった。

外バレエスクールへ短期留学しよう

中学2年生の夏休みに、自分は初めての短期留学として、例のスカラーシップで、アメリカのバレエ学校のサマーコースに参加した。

その時与えられた部屋番号と、「YAGP」本大会での出場番号の同じだったことには驚いた。

留学先では、日本で受講しているようなクラシックバレエクラスの他に、コンテンポラリーのクラス、ジャズのクラス、と様々な種類のレッスンを受けることができた。

正直なことを言うと、日本で習っていたスタイルとの違いに混乱したのもあり、バレエが飛躍的に上達したか問われると、返答に困る。

けれども、初めての留学経験だったので、留学生活がどういうものであるのかを知ったことや、海外で実践される別のメソッドを知ったことは十分な成果だった。

それ以降もコンクールには出場し続け、夏には大抵、海外バレエ学校に短期留学をした。

中学2年生の夏には、フランスにある有名な「パリオペラ座バレエスクール」へ短期留学をした。

飯がめちゃ美味しくって、風呂がめちゃ汚かった。

この機会はコンクールで得たのではなく、募集要項を読んで、パリオペラ座バレエスクール宛に必要なレッスンビデオ、ポーズの写真を送り、応募して得たのだった。

どこか海外へ留学したいと考える方は、コンクールでのスカラーシップばかりではなく、こうした直接的な応募をすることに挑戦してもいいだろう。

中学3年生の夏には、同様に応募をして、イギリスの「ロイヤルバレエスクール」のサマーコースに参加した。

レッスンは厳しかったが、非常に有意義だった。

この留学で自分は、「来年もまた来てね」という参加資格をもらった。高校1年の夏にも再び参加することになる。

レエを辞めよう

これらを読んで貰えるとわかる通り、中学生に入ってからは、案外順調に成績が残せるようになっていった。熱意の有無を振り切って行為することに従事した結果かとも思う。

それにつれて将来は輪郭を帯び、人生の道筋がより現実的な形を持って自分の前に現れるようになった。

この体温を持った想像の将来と向かい合うとき、自分はまた、のしかかってくる重圧を胸回りに感じずにはいられなかった。

なぜなら、そのまま邁進を続けることは、言うまでもなくバレエダンサーとしての人生を歩むことを意味しており、

そして果たして自分は興味の一切湧かないバレエに一生の大半を捧げられるのか、という問題があったのだ。

今まで自身の無関心を見ないようにして無関係と決めつけていたから、ここで再び浮上した時には、相当動揺した。

まず子供らしく利益のことを考えた。

しかし自分の知る限り、バレエは儲かる職種ではなかった。むしろ学校にて普通に勉強している生徒たちの方が、将来サラリーマンとなってもっと稼ぎを得るだろうと思われた。

であれば、何のために学業に加えてバレエに時間を割くのか理解できなかった。これほど苦痛のコンクールを数々乗り越えて奮闘していることの意味が分からなかった。

結局、残るのは大して興味もないバレエに携わる職業と、わずかな稼ぎではないか。まったく悔しかった。

次に自分の恵まれない体型について考えた。

自分は決してスタイルのいい体つきをしていなかった。どころか身長も低いし、手足も短い。

例えこのままプロを目指すにしても、そこには越えられない不条理が待ち構えていることが明らかだった。要するに生まれついての体型を理由に海外バレエ団への入団ができなかったり、役を得られなかったりということだ。

仮にバレエに強い憧れがあったなら、はねっかえりの奮起も可能だったかもしれないが、はなから興味のない自分にそのような気力が湧くはずもなく、これから先の前進をますます難解にした。

以上を踏まえて、バレエを辞めることを考えた。

丁度中学校から高校に受験をする時期は、多くのバレエスクール生にとっても、バレエを続けるか否かの分水嶺であった。時期も影響して、辞めることを考えた。

「Yahoo!知恵袋さん」の「バレエ 辞めたい」の回答によく見られるのが、「辞めたいのなら、辞めればいいじゃない」という質問者の意志薄弱をたしなめる意見である。

これには実は自分は賛成だった。優柔不断をみっともない甘えだと思っていた。

ところがいざ自分の問題として扱うと、事はそう単純には済まなかった。

これまでの努力を霧散させることが惜しかったか?そうじゃない。当時の自分は、現在までの両親の援助も、自身の努力も、全部を踏みにじっても構わないと思うほど人生の行く先を悲観していた。餓鬼のくせに生意気な、と思われるかもしれないが、当人にとっては大問題だった。過去を見るより、未来を考えるほうがいつだって怖い。

では何がそこまで物事を複雑にしたかというと、それは紛れもなく、まとわりつくような人間関係だった。

自分に少なからず期待を置く教師や、「一緒に頑張ろうぜ」と話す友人、様々な面から自分を支える両親。

彼らに自分の意思を打ち明けた時、彼らの期待・信頼は例外なく否定に豹変するだろうことが確実だった。

来ると分かっているのなら覚悟はできる。振り切ることは難しくとも、怖くはなかった。

しかし真に自分が恐れたのは、周囲の否定を押し切ってまで突き通した自分の意思が、本当に正しいのか分からないことだった。

いや、事実、意思に正しいも正しくないもなかった。

バレエを辞めることが自分にとって将来益になるかどうかなんて分かるはずもない。バレエを辞めて通常の学生になることを決して損失だとは思わなかったが、かと言って利益を望んで辞めようと言っているわけでもなかった。

苦痛だから辞めようというのだ。

しかし周囲の否定にさらされたとき、「嫌だから、そうしたいから」は社会に通用しない。正当性の主張を迫られるだろう。もっともな理由を言って、相手を納得させなければならない。

彼らを前に、自分の自分による自分のための意見はことごとく無力だった。どれほど意味ある感情であっても、自分勝手に過ぎなかった。

尻尾を巻いて逃げるしかないと思った。DSからカセットを引っこ抜いてゲームを強制的に終わらせるように、極力教師とは話さず、友人とは会わず、両親には泣き叫ぶ様子でも見せて同情でも誘おうか考えた。

だが、それを選択した場合、自分は一生その時の負い目を背負って生活しなければならなかった。

これを分かった瞬間、「多くを裏切ることを正当化できない」という意味で”遂には自分に対しても”、自己の意思は納得をもたらさなくなったのだった。

まさか当時の自分がここまで順序だてて自身の不満を考えはしなかったが、それでもこの不快感は見えない弾力ある壁の感触として捉えられ、自分を袋小路に追い込んだ。

四方八方から迫りくる壁は容赦なく自分を圧迫した。

なんでもないレッスン後のベッドの上で、階下から聞こえる両親の談笑を聞きながら、声も出さずに涙をこぼした。(悲しかった、辛かったからではない。怒りや徒労感など無数の要素を含んだ感情の濁流がはみ出したのだった)

「辞めるか、辞めないか」はここに来て、どちらも負の条件を孕み、等価の選択肢になった。

それから続いた長い間の懊悩が導き出したのは、「行動を起こさず、辞めない」という保守的な決定だった。

ここに「本当に正しかったのか、選択を放棄しただけだったんじゃないか」という嫌疑は愚考である。先に述べた通り、そもそもこれは自分のための苦悩であり、正当性を求めたものではなかったからだ。

自分さえ良ければそれでよかった。

ただこれ以降、自分は選択した意識を持った。

奴(やっこ)は15歳になってようやく、自分自身が「バレエを辞めないこと」を選んだ自覚を持って、バレエに向き合って睨みつけるようになったのだった。

腫物のようだった、自身のバレエに対する無関心に、やっとこさここで一つの決着みたいなものがもたらされたわけだった。

うっわ。なんだか壮大っぽくなっちゃった。

まいっか。

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【高校生】オランダへの年間留学。バレエ団への就活。バレエを考える。

華の高校生。学校は、家から近いという理由で決め、受験した。自転車で5分ほどの位置にあった。

小学校、中学校、高校と一度も町内を出なかったのは、なんだか大層な怠け者みたいだなあ。

勿論部活には所属しない。自分から入っておいて「部活辞めたい」とこぼすクラスメイトが妬ましかった。

体育の授業では、なるべく怪我をしないように、なるべく余分な筋肉を付けないように留意した。

バドミントンの授業では、足首を挫かないために靴底の浅い靴の使用を許可してもらった。

長距離マラソンでは、「明後日公演なので」と言って、他生徒の2倍もの時間をかけてグラウンドをちんたらジョギングし、延々生徒たちを待たせた。

ランダへ留学しよう

高校1年生の秋に出場した「YAGP」の日本予選にて、自分は「オランダ国立バレエスクール・トレイニー  プログラム(研修生コース」の入学許可を頂いた。

貰えた時はとてもうれしかった。というのも周囲の出場者らは次々とスカラーシップをもらって年間留学していくので、自分だけ取り残されているように感じていたのだ。

オランダのバレエ学校での1年目は、不慣れなことも多かったが、他に3人の日本人留学生もいたので、お互いに情報共有しながら楽しく過ごした。

2年目には、厄介な事が起こった。学校側のいざこざにより、学校は2つの派閥に分断され、生徒たちもまた分裂することになったのだ。

自分にとっては、この一件により”学生ビサが取れなくなった”ことが一番の痛手だった。

ヨーロッパの規約により、自分は3か月おきにしかヨーロッパには滞在できなくなった。

9月~12月と、4月~7月まで、オランダのバレエ学校に通学することにした。

ーディションを受けよう

ビザの取れなくなったという2年目は、オーディション、つまり海外バレエ団への就活を始める時期だった。

それぞれのバレエ団の指定する場所、日時にオーディションを受けに行くのである。

だからビザの関係でヨーロッパのバレエ団のオーディションを受ける機会を失ったことは非常に迷惑なことだった。

流石に責任を感じていたのか、学校側からの提案で、自分はヨーロッパに入国できない期間、先生の知り合いの持つ、アメリカのバレエ団に体験入団をさせてもらえることになった。

そうしてアメリカに滞在するその期間中、アメリカのオーディションへの参加を勧められたのだった。

アメリカでのオーディションは非常に厳しかった。

それは実力云々の話よりも、ここでもやはりビザ取得の問題が立ちはだかった。特に今の時期はトランプ殿のお陰様で、労働ビザ取得の条件は厳しくなっている。

ビザの取れないことを理由に、わざわざ出向いた会場では、参加料を払ってオーディションを全力で受けた後に、「君たちのビザは取れないから、申し訳ないけど帰ってね」と突き返されたこともある。

無論、ビザ関係以外の欠点もあったろうが、大抵はこんな具合だった。

まあそんなこんなでアメリカでのオーディションは見事に惨敗。

体験入団したバレエ団でも、ディレクターの苛烈な性格から、またカンパニーの複雑な人間関係から、様々な問題に振り回された……。

いやあ、しっかしニューヨークの冬は阿保みたいに寒かったなあ。

二度と行くか。

4月からオランダに戻ってからもオーディションの申し込みを行ったが、その時には募集をしているバレエ団も少なく、

結局受けに行けた唯一のバレエ団「スペイン国立バレエ団」のオーディションでは、我ながら上出来な感触を覚えたにも関わらず、入団には至れなかった。

レエについて真面目に考えよう

高校生になって留学生活が始まり、本格的にバレエダンサーになるための暮らしをするようになると、

バレエに対する自分の意識は変わっていった。

「好きか、嫌いか」「興味が湧くか、湧かないか」で考えるのではなく、舞台を鑑賞するとき、自分はバレエにおける芸術性について批評しながら席に座るようになった。

舞踊とは視覚で感じる芸術だった。逐一の動作に美への探求が滲んでいる必要があった。

このような意識を向けるようになったのは、他でもない、オーディションへ向かう飛行機内で読む小説たちの影響だった。

子供の頃から読書はどちらかといえば好きな方であったが、この頃になって文学が自分に多大な感動を与えるようになったのだった。

一口に感動という言葉を言うのはあまりにも安っぽいが、とにかく小説をよんで「ああ、いいなあ」としみじみ思った体験が、今まで遠い位置にあった”芸術”とかいう曖昧なものを目前に表したのだ。

だから自分は、バレエよりも先に芸術に対して親しみを抱くようになった。

受けた感銘には、純然な事実としての信頼を置けた。確かにあの時感動した、ということは覆しようもなかった。

「芸術はあった」という結果だけを持って、その過程をたどって原理を考えた。

そうして芸術性という方面から、バレエへのアプローチを試みるようになったわけだった。

しかしそうやってバレエに向かって理解を伸ばしてみてまず分かったのは、自分の内面の構造が、バレエに感極まる仕様には形作られていないということだった。

バレエの目指す芸術性について理解が及び始めた時、それが自分を震わせる感動の種類から離れた場所にあることに気付いた。

方向性が違うだけなら話は簡単だった。問題は、バレエの持つそれがどうにも劣っているように思われたことだった。

自分があの時感じた、身辺の全てを無理やり引っぺがし丸裸にして、強い意志の雷撃を直撃させ鑑賞者を殺してしまうような、あの感覚を信じれば信じるほど、

なんとなく漂うばかりの感覚的な、偶発的な、瞬間的なバレエはあまりにも希薄な感性のよりどころとしてしか捉えられなかった。

勿論、他の感動を尊重するべきなのは分かっていた。

けれども他人へ向けるような尊重をその芸術に対して持つということは、ますますバレエを自分とは相容れない外部のものとして拒絶することを意味した。

しかしバレエダンサーではなかったか。

バレエへの感動を内側に持たない人物が、果たして感動を舞踊に乗せてアウトプットできるか。

そんなわけはなく、そうあってはならなかった。

自分は個人の権利の域内にて、形式的な物事をことごとく嫌っている。結婚式も葬式も、果ては誕生会も嫌いだ。

そんな自分にとってバレエのような形式美はどうしたって宿敵に他ならないのだった。

このように、自分は幼いころに感情からバレエに敵対していたように、高校生になってからは理性の面からバレエに激しく衝突することになった。


現在のお話

自己劇化は好きじゃないし、どころか嫌いなくらいだ。

だから今回色々書くにあたって、なるべく必要以上に物事を美化しないように努めたつもりでいるけれど、もし胸やけを催された方がいたなら、ここに謝罪と弁明を書かなくちゃいけない。ごめんなさい。

もしかすると自分のバレエに対する姿勢が誇張されて映ったかもしれないが、

こんなのは誰しもが日々の内に抱える諸問題の一部に過ぎない。

自分がここに書くことさえ、そして読者が読むことさえなければ、これらは浮上することもなかったし、そうしてそもそも存在しなかったこととして扱われるべき物事だった。

むしろ蔑ろにされてこそ、これらの経験は自分の中だけに強大な価値を確立すると言える。(って、こういう意味ありげなことを書くのがいけないんだろうなあ。自己告白とか向いてないっすわ、自分)

これらの長い話の総括として言えることは、自分にとってバレエとは憧れの対象などではなく、

時に憎むべき敵であり、自分を苦しめる害悪になる存在であったということ。

これは今も変わらないことで、ふとした瞬間に極端に悲観的になって自分の生涯を呪ったり、かと思えば自分の鍛え上げた技術として誇らしく思うこともある。

なんとも厄介な肌に合わない道を歩いているもんだと思う。

しかし一概に切って捨てるには、これまでのバレエダンサーを目指すために行ってきたことのもたらした有意義は大きすぎる。

現在では、「失敗だった?」と聞かれて「失敗だった」と答えたような中学生時代と比べて、比較的前向きにバレエを考えることができるようになったと思う。

最近は自身の内に、バレエに内包される芸術性への感受性を育むことも新たにできるようになってきた。

バレエ団への就職のかなった暁に挑戦を始めたい物事も明確になってきた。

そういう意味で、自分はようやくバレエを”習い事”とか”役割”としてではなく”バレエ”として始めることができるのではないかと思う。

随分とまとまりのない文章になってしまったが、ここまで読んでくださった方には感謝を申し上げる。

……出番のようなので、終わり。