自分がネットをストレスに感じる理由。
- 2019.10.14
- 雑談

どうも、奴(やっこ)です。
自分は今、こうしてインターネットを介して、いるかわからない貴方に向けて文字を打っているわけだけれど、
正直言うと、ネットは苦手だ。もちろん、肌に合わない、という意味で。
そしてそれは主にネット内のコミュニケーションにまつわる不満が原因になっている。
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こうやって話しているのは、この不満・ストレスというものが、ネットを利用する誰もが感じていることであろうからだ。
何か役立つ情報を提供するでもない、ただネットに向ける我々の不満の原因を奴(やっこ)なりに書き表してみたので、
綿棒で耳でもほじくりながら「あるある~」とか「それな~」とか感想しながら、娯楽として楽しんでほしい。
くれぐれも耳垢の深追いはしないように。
話の通用しない荒々しい人物が住んでいる
ネットの問題というと、最初に頭に上るのは、時折利用者に見られる乱雑な立ち振る舞いだろう。
特に匿名性を盾にあること/ないこと誹謗中傷を行うヤカラのいることが問題視されているのは、周知のことと思う。
ネット事情に疎いアナログ世界の住人(自分)も知っていた。知って一人で震えていた。
はたから見ていても気分が悪くなる。怖いし。
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とは言ったものの、実のところ自分たちはこれに関しては、それほど不満に感じていないように思う。
というのは、我々は大勢の知っている/抱える問題に対しては、仕方がないものと受け入れることをするものだからだ。
周知の事実に対してあれやこれや不満を漏らすのは、幼稚に見られる。体裁が悪い。
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例えば、「生まれつき決定している容姿」について、その理不尽な仕組みに憤慨しようとも、
賛同者が募るばかりか、むしろ「大人になれ、タコ」という目に染みる鼓舞を受けるだけであろう。
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また具体的に言えば、奴(やっこ)はバレエダンサーをしているが、
例えその西洋舞踊文化を本格的に学ぼうとヨーロッパに漕ぎ出したとて、
オリーブ肌のアジアンを脱することは出来ないし、
だからこの背の低さ・スタイルの悪さを変形させられないし、
そうして就活に決定的に不利であるし……
などと言ったところで、「今更何を……」と呆れられるばかりである。
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とまあこういった具合に、誰しも多くの不条理を抱っこして日々をぷかぷか揺蕩うわけであり、
そしてそれは周知の事実とされており、
そのため今やもう不幸を語るということそのものが疎まれる傾向にさえある。
これはつまり、我々がそれぞれの不自由を各々自らの内に受け入れ、時には罵って踏み越えながら、
この強かさを当たり前に生活しているということだ。(ここ、「それな~」ポイント高い)
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大分脱線したけれど、つまりは、ネット利用者は皆「ネットで暴言・虚言を吐きつけられるなんて当たり前」という前提を持っているということ。
確かに、言われなき難癖が理不尽な流れに乗ってどんぶらこ寄って来たなら誰しも腹が立つが、
大抵は自分で留飲を下げ、「まあこんなもんさ」と落ち着く。
だって騒ぎ立てて癇癪を起すことを恥とも思うから。
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かくて前提条件を基本として持つという行為は、不快感さえ抑制し軽減するものなのだ。
だから、世間においてはよく匿名性とその奔放さが重大問題として扱われるが、
自分たち個人にとっては、ネット世界の住人の横暴なんて、あらかじめ理解しておく利用規約のようなものに過ぎないだろう。
ネットに抱えるもやっとした不満の根幹じゃない。
じゃあ一体何が気に食わないんだ。
個人の価値はぐちゃぐちゃに変動する
本当はこの記事では、奴(やっこ)の持つ歪曲した恋愛観について、もっともらしく語ってやろうなどと考えていた。
だってなにやら恋愛話というのは大勢の興味を惹くらしいし、意見に同意を得られれば気分がいいじゃないか。
ウキウキブギウギ文章を考えた。
しかしそうやって構想を練れば練るほど、その一語一句から自分の意図している内容と価値がなくなっていくように感じられた。そうして段々虚しくなってやめたのだった。
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Twitterなどで頻繁に見るだろうが、(自分含め)自身の意見を語る人物は多い。
というかむしろ意見の発信を主目的にしているアカウントが大多数だろう。Twitterはそもそもそういう場所だ、という人もいるだろう。
別に何もおかしなところはないし、悪いことなんてない。
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問題にしたいのは、そうした意見を受け取る際の”我々の態度”である。
投稿を見て、その意見の内容を評価し、時に感心して、時に非難する。
この時、閲覧者は発言者の意見、ひいては発言者と1対1になったつもりで反応するものだ。
つまりは、受け取る側というのは常に、目前ただ一つの意見に対して真面目に対峙するのである。
(ここで言う真面目とは、相手の言い分を乗り越えるべき自分の課題として扱うこと)
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ところが、ネットの発信者側においては、明確な向かい合う人物というのは存在しない。
ただ、大衆、しかも結論を出さないバラバラな集合体、不特定多数があるだけである。これが”我々の受け取る態度”だ。受け手の形態とでもいうべきかもしれない。
そしてこの事実から発生するのは、”(ネット内での発信に返ってくる)反応の価値の希薄さ”であると考える。
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まずネットの不特定多数とはなかなか興味深いもので、これは個人と大衆の中間の形態であると思う。
というのは、自分たちは大衆に対して、ある集合体と向かい合う意識を持って対峙するわけだが、
しかし実際にはこの集合は統合意思を持たないため、本質的に接することになるのは、一つ一つのアカウント、一人一人であるからだ。
集合が結論した返事をよこさないから、我々は個人個人の反応を見て、全体像をおぼろげに想像してみることをするのだ。
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とはいっても、やはり元々は、発言者は個人ではなく全体に意見を開示した、発信したはずなのだ。
いつだって、意見の発信の目的・意図は、「同意を得たい」だとか、「返ってくる批評を踏まえて持論を強化したい」というようなものであろう。
そしてそれはネットにおいて、ねちょっとした匿名個人を信用できない分、ふわふわっとした全体に求められるものだ。
このようにして、本当は大衆という全体に反応を求めるものだから、当然個人個人の意見というのは、全体を形作る一粒として認識される。
集合体の反応を求め、導き出そうとするため、一人一人の意見を完全でない欠片として読む。そしてしかし意見たちのあまりの無秩序から、結局全体には確固たる結論を得られない。
これがネット内発信への反応に作用する価値の希釈の原理である。
かようにネットにおける個人の意義は極めて小さい。
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例えば、自分は「もともと歪曲した恋愛観を話すつもりだった」と前述したが、
これは個人に持ち掛けようという相談であった。
確かに、受け手はその内容を、奴(やっこ)の願った通りに、真面目に(乗り越えるべき自分の問題として)対応するだろう。
それぞれの中にある理念に照らし合わせて、尊厳ある肯定/否定を行ったであろう。
しかしながら、発信者である奴(やっこ)にとっては、そのどれもが価値ある反応として現れないのである。
なぜなら、自分が相談を持ち掛けようとしていた”個人”とは、知りもしない有象無象の内の誰かではなく、
実は頭の中に想像した(夢見たと言ってもいい)大衆の統合体であったからだ。とある代表者であったからだ。
そうでなくては、あまりにも雑多な、統制を受けない意見の一つ一つに信頼など置けず、そういう意味で個人の反応は価値を持たなかったからだ。
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そしてもちろん、ネットに代表者などいない。
これに気付いた時、奴(やっこ)の意見もまた、語る価値を持たなくなったのだった。
読者の意見がたとえ尊厳ある理念に基づいて語られようと、
それが得ようと考えていた――錯覚していた――唯一無二の友人から貰うような、激のこもった返答として(ネットの構造のせいで)受け取れないのであれば、何のために書くのかわかりゃしない。
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この発信者側から見るネット世界と、受け手側から見るネット世界との価値の差異こそが、
発信者でもあり尚且つ受け手でもあり続ける我々利用者を困惑させ、歪な不協和を引き起こす元凶ではないだろうか。
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さらに言えば、これは不特定多数という形態が、物事を複雑化しているのだろう。
立場によって大きく変わる個人の価値。
これを逐一見極めることが、ネットにおける賢い立ち振る舞いと言えよう。
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じゃあ、どんな姿勢で発信すべき?
自分はこう見えて、真面目な人間である。と本人は思っている。嘘じゃないよ。
……だから何か意見を発信しようとする際には、先ほども書いたように友人に内情を告白するような心持でいる。
そうやって相手に相応の反響、反発を期待するのだが、
やはりネットにおいては誰が・どれがその”相手”であるのかまるきり分からない。
ネット内の構造には、こうした真面目な関係をかく乱させ、誤魔化すように解消する機構が備わっているように思う。
これが自分には甚だストレスに感じられるのだ。
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だから発信する内容に期待する結末を、より気軽な、より一方的なものに変えることにした。
今回の記事がそうだ。
これまで散々堅苦しい意見を述べてきたけれど、最初に打った通り、これらは娯楽として提供するものである。
賛成も否定も期待しない、あまつさえ、実際に面白かったか/つまらなかったかさえも自分は意に介さない。
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仮面を用意したのだ。
三島由紀夫著「仮面の告白」、彼が仮面の下のみに告白が可能だったように、
個人・意見の価値をいかようにも貶める不特定多数を孕んだネットにおいては、
自己の価値に影響の及ばないように、まったく離れたところにある仮面を持ってくる必要があるのだ。
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てな感じで、内容に直接関係しない、二次影響とでもいうべき属性を求める、
そういう姿勢でネットでの発信を行っていこうと思うぞ。
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正直これまでの文章・最後の決意めいたものって、単なる精神環境の整理だな。
この世に何か実益を発生させるものじゃ決してない。なんでネットに上げるなんてする?
そんな不安が、最後の最後にして奴(やっこ)の頭をもたげるけれど、
どうやら出番のようだし、
「別にいいじゃん、娯楽なんだし」
そう言って、ここを離れる。
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・今回のまとめ
- 匿名性を盾にしたネット利用者の横暴は、確かに度々目に余る問題として取り上げられるが、利用者個人のネットに感じる不快感の原因は、別にある。
- 個人の価値・意見の価値を歪ませる不特定多数という茫漠とした集合にこそ、我々(発信者)は翻弄されるものである。
- 対策として、ネット内のコンテンツには、気楽かつ一方的な属性を付与することにしよう。
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