純文学とは?・書き手目線で考える

純文学とは?・書き手目線で考える

どうもこんにちは、奴(やっこ)です。

数年前から執筆を趣味にしています。主に純文学の作品を目指して、日々創作にいそしんでおります。

今回は、そんな自分が思う、純文学の実相についてお伝えしたいと思います。

一般の解釈では、それは、

大衆文学、通俗文学に対して、純粋な芸術的感興を追求しようとする文芸。

小学館 現代国語例解辞典【第五版】

というように、曖昧な解釈がされています。

相対的な意味を知ることはできても、内容を理解することは容易くないように思われます。

多くの記事では、純文学に関する細かな歴史や、出版の側面から見る純文学などが詳しくまとめられています。

ですのでここでは、純文学の理解の上で最も重要でありながら、最も判然としない芸術的感興、芸術性について説明していきたいと思います。

自分という書き手にとって、他の解釈を聞くことのできる機会はとても喜ばしいものであります。この度は自分がお役に立てたら嬉しいです。

激しく反駁するもよしです。少しでも参考にしていただければ幸いです。

批評しつつ、温かい目でお読みくださいませ。

純文学の歴史について詳しくまとめられている記事です。↓↓

純文学の出版の事情について意見をまとめられている記事です。↓↓

その一、純文学の芸術性とは現実に対する感動

小説を読む際、皆さんは何を求めているでしょうか。

言われて、一般的な動機として思い浮かぶのは、

「日々とは異なる世界に身を置きたい」であったり、「毎日の中には起こらないドラマを体験したい」という、

架空に対する憧れだと思います。

そしてこの架空の体験に得る感動を突き詰めるものこそが、大衆文学なのだと考えます。

これは単純な話で、要するに娯楽を目的に書かれている、ということを言い換えたに過ぎません

ただし、架空に対する感動を求めているという部分がミソであります。

では、対する純文学の目的、ひいては芸術性がどこにあるのかというと、それは、

現実に対する感動にあるわけなのです。

我々が深く傷ついたり恐怖したりする対象には、常に現実的な側面が多大に含まれています。

例えば、取り返しのつかない失敗という時間の限界や、死去という物質的問題に、人はたびたび突き当たります。

そうした現実の事物が克明な実体を持って目の前に現れた時、無力感と空虚感が募っていくばかりであるのを、多くの方が経験の内に知っているものと思います。

そうしてまた、実際の現実・事実がどこまでも公平なものであることも周知のことでしょう。

例えそれが我々に悲愴感を味わわせるばかりであったとしても、現実そのものの本質が悲劇なのではなく、それは人の抱く観念が原因なのです。

事実の公平であることこそが己の身を焼くのではありますまいか。

架空の感動との差異こそが最も恐ろしいのではありますまいか。

であるならば、一方で我々は、あくまで公平な現実の中に、身を震わせるような美しさ開拓することも可能でありましょう。

そしてその解放を表現することこそが、純文学の担うべき役割であるのではないでしょうか。

まるで進展の見込めない現実・事実への思索を促すことは、まさに解放と表現すべきと思います。

架空に憧憬を持つように、現実の物事へも積極的な意識内容を抱くことが出来たなら

それは大袈裟でなく生を謳歌することを意味するのではないでしょうか。

多くの文学が世俗的な観念を振り払うことを前提としているのは、あらゆる物事に対して公平な立場で、現実として向き合うことを目的としているからだと思います。

そうして残酷さや空虚さ、有り余る歓喜について、未開拓の領域に刺激を受けること

現実の奥行きを掘削していけることは、何よりも素晴らしい事でしょう。

今回のまとめ

・純文学の芸術性とは、素っ裸で現実に相対する人物の表現にある。