バレエダンサーは、芸術家たるべきか、ダンサーたるべきか?

バレエダンサーは、芸術家たるべきか、ダンサーたるべきか?

どうもこんにちは、奴(やっこ)です。

今回は、就活中のバレエダンサーである自分の考える、

バレエダンサーとしての方向性について綴ってみたいと思います。

そうしたわけで、仰々しいタイトルを掲げたのですが、

小難しい話かと構える必要はございません。

また「他人の主張なぞいらん」という方も、

あくまで路傍の一意見としてご笑覧いただければ幸いです

バレエダンサーは芸術家か?

これを考えることの重要性

バレエは主に音楽、美術、舞踊を集結させた総合芸術として知られています。

では、踊り手を担う我々バレエダンサーは芸術家と言えるでしょうか?

決めてかかるのは早計であります。

確かに、芸術の創作に携わる立場ではありますが、それを理由に芸術家を名乗ることは短絡的と言えましょう。

そこには、芸術を自ら演出することの意志が致命的に欠落しています。

無論、芸術家という肩書が決して重要ではありません。

芸術家であることに意義があるのではありません。

しかし自身の芸術への関わり方を理解しないのは、バレエの芸術性について、ひいてはバレエそのものについて考えないことと同じではないでしょうか。

――考えたところで、そこに即物的な価値の伴わないことも確かではあります。

なぜなら、我々がどんな意識を持って踊ろうと、基本的に観客は舞台の内容に喜んで帰っていくからです。

自分の感じた失敗を観客が特に気づいていないという例(大抵これは明るい見方に利用されますが、ここでは悲観的な捉え方をします)と同様に。

では、バレエについて何の思索も巡らさずに踊っていいのかと言えば、そうではありませんよね。

思考放棄をした伝統だよりは、芸術性の保持を達成するでしょうが、

芸術の昇華を妨げます。

人々の感性だけが時代と共に流動する世の中で、いずれバレエは取り残されることになるでしょう。

形だけが継承され、”感動なき芸術”となる懸念をここに示します。

そのため、自分は意思や思念を内包しないバレエ(芸術)をことごとく唾棄します

批判の基準の正否を問わず、こうした停滞に対する強い拮抗力が必要であると考えます。

でないとすぐに忘れます。

例えば金銭のような価値に反映されないから忘れます。

鑑賞者の意見として形にならないから忘れます――。

バレエダンサーの方針

前置きはここまでにします。

さて、こうして改めて捉え直すバレエダンサーとは、果たして芸術家でしょうか。

つまりここで問うのは、バレエダンサーとは本当に、観客の胸の内に感動を生起させることを目的に踊るのでしょうか?ということ。

自分はこのことに懐疑的です。

というのも、いくら感銘を与えることを目的に据えていても、

我々のできる試行錯誤は、形式・振り付けに従うために、あまりに閉じていますし、

そうして感動の根本を左右するに至らない、形成するに至らないからです。

芸術家は、他の何を置いても芸術の研磨を目指さなければならない……。

抱える制約を無視することは徹底しない甘え。

正に、ダンサーとは絵画を描くのに使う絵筆のように思います。

もしくは、音楽家の使う楽器のようだとも。

この考え方を採用するなら、振付家・舞台監督が芸術家の位置に最も近いと言えます。

そうして、振付師が自ら踊るという形が理想ではないでしょうか。

ところが、実際にはそうもいきません。

人の体は一つしか与えられていませんし、他にも致命的な問題がいくつも浮上します。

かくて芸術創造のための役割分担がされているわけです。

そうして芸術発生に直接的に関わらないダンサーという役目のあることは、必然と言えましょう。

芸術を考えずに成り立つバレエダンサーのいることにも頷けます。

しかしそれでも芸術に対する鋭い感覚を持つべきことは、先に述べた通りです。

バレエダンサーとは、己の芸術性を持ちながら、他の芸術に屈服するという危うい方針を取らなくてはならないのではないでしょうか。

今回のまとめ

・バレエダンサーは、自身の内に独自の芸術を持ちながら、他者の芸術を演出するという方向性を取る。