「天気の子」が面白かったので、つまらないと感じる立場を考察する / 後編
- 2019.08.17
- 雑談

どうもこんにちは、奴(やっこ)です。
こちらは前回の記事の続きです。未読の方は、こちらをさきにお読みください。↓↓
8月14日に、いとこたちと「天気の子」を鑑賞してきました。
「秒速5センチメートル」「言の葉の庭」「君の名は。」で有名な新海誠監督の最新作です。
今回も一応「天気の子」のホームページを張り付けておきます。↓↓
映画の内容を反映した面白い企画を様々行っているので、すでに映画を観てきた方、またこれから行こうと考えている方は、ぜひ訪れてみてください。
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この記事は前回の後半に当たりますので、「感情移入のできない要因」に続いて、
今回は「ストーリーをつまらないと感じる心理」について考えることをしていきたいと思います。
ストーリーのつまらなさ、とは

今回の作品に対して、「ストーリーがつまらなかった」という意見をたびたび目にします。
ストーリーのつまらない理由として挙げられるのは、「内容がありきたり、結末が予想できる」であったり、「内容が薄い」というものであります。
このストーリーのつまらなさというのは、要するに自分の期待していた展開ではなかったという心理ではないでしょうか。
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作品を鑑賞する際に我々が持つこの期待というものは、
ストーリーの展開の予想、とは全く別の分類で、確かに体内のどこかに発生するものなのだと言えます。
それはとても抽象的な、原則めいたもので、
人は、表向き予想を裏切られたがりながら、曖昧な予測のような期待に見返りを得たい、という思いで物語を鑑賞するものなのではないでしょうか。
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単に意外性のあるストーリーに驚かされたいだけならば、「夢オチ」や「爆破オチ」で構いません。
「まさか登場人物全員が地球温暖化で死んでしまうとは……」
感動しながら映画館を出られるでしょう。
しかし我々は、例えば、どんなに奇抜であっても余計な要素を望みませんし、
それはつまり、物語の設定の明らかになった時点で、既に期待するストーリーを脳内に膨らましている、ということなのだと思うのです。
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期待するストーリー性とは一つに限りません。
ハッピーエンド、バットエンドを予測し、それぞれの場合の納得のできる結末を無意識にぼんやりと千種に想像して、期待します。
また流動的であると考えます。
話が進み、様々な要因が明らかになっていくのに合わせて、妄想は自身の求める原則を踏まえながら軌道修正されていきます。
そうして「恋愛の成就」や「主人公の成長」などという期待した”成果”と物語が合致した時、「面白かった」と感じるのでしょう。
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これらのことは言ってしまえば当然のことでありますが、
我々鑑賞者が物語に求めている、という主体性を忘れるべきでないと思います。
もし物語に得ようとする要素の幅をより広く自分が持つことができたなら、
一層豊かな観点から物語を味わうことができると考えるからです。
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また「つまらない」と感じることが、単に自分の期待と作品の実際との不一致でしかないことの自覚にもなります。
戒める必要があるわけではありません。
楽しまなければならないわけでもありません。
ただ、「つまらなかった」という感想は、物語の本質的な主張の存在を頻繁に忘れさせるものであります。
つまりは物語が我々に与えんとした要素が隠され、「合わなかった」という結果だけが強く印象付けられ、心に残るということです。
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鑑賞者は作品から物事を受け取るだけではなく、自身から何事かを求め、得ているのです。
この観念がより自由な鑑賞・鑑賞の思索へと導いてくれることを予感します。
今回のまとめ
・ストーリーがつまらなかったというのは、自分の期待した展開ではなかったという心理である。
・受け取るものがあるばかりではなく、我々が物語に物事を積極的に得ている。
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