「天気の子」が面白かったので、つまらないと感じる立場を考察する / 前編
- 2019.08.15
- 雑談

どうもこんにちは、奴(やっこ)です。
昨日、8月14日に「天気の子」を観て来ました。
「君の名は。」でお馴染みの新海誠監督の3年ぶりの新作です。
こちらは「天気の子」のホームページですので、ぜひ訪れてみてください↓↓
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自分の率直な感想を言えば、とても面白かったです。
そして面白いと感じれば感じるほど、相反する意見を理解することが大切だと思うのです。
ですから今回は、「天気の子」、
また「天気の子」に類する作品に対して気の合わない心理について、魅力的だった点を交えながら考察を述べていきたいと思います。
そもそもなぜ否定的意見を理解するべきか

「天気の子、もう観た?」
友人との何気ない沈黙を埋めるために使われるような質問を、自分の場合は映画好きの叔母から尋ねられました。
未鑑賞を互いに伝え合い、その後話を聞いていると、どうやら叔母は「天気の子」を鑑賞することに消極的でした。
「あんまり『君の名は。』も合わなかったんだよね」
映画史に残る大ヒットと言われたほどの話題作に対して、こうした意見のあることを自分は茫漠と知っていましたが、
実際に持ち主を前にすると、非常に好奇心が掻き立てられるものでした。
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こうした反対意見に対しては、深く立ち入らないことをするだけで、円満な人間関係を保ち続けられます。
しかしながら、はなから自分と異なる感性だと割り切り、対岸の景色を想像することをしないのは、
自身の見識を狭めるばかりですし、
何より鑑賞者の怠惰だと思うのです。
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彼らの思う「つまらない」側面というのは、自分たちが「面白い」と感じる部分と同様に、紛れもない作品の本質であります。
感想とは、人が抱くものでありながら、作品が人に与えるものでもあるからです。
あらゆる意見が、各々の感性に基づいている個別的なだけでなく、作品の一面として全体に含まれている一体性も持っているわけです。
であるなら、対局の意見を知るだけにとどめて理解することをしないのは、作品に対して歩み寄りのないことに他ならないです。
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対岸の景観は、我々にとって不都合でしょう。
しかしそれを知ることは、一方で自分の持つ好意をより詳細に、より盤石なものにする行為です。
以降の映画を一層楽しく鑑賞することが出来るようになるではないでしょうか。
「天気の子」はあまりに夢見がちである

新海誠監督の映画では、いつもその情景描写の巧みさに息をのみます。
同監督の「言の葉の庭」中でもこだわっていた雨の描写は、今回も素晴らしく感じました。
電車や地面のタイルにぶつかって弾ける水滴が細部まで描かれていて、自分は特にそれを綺麗に思いました。
また、身の回りにある物を普段意識しないようなアングルで描いているところが特徴的だと思います。
映像を観ながら細かな発見があるので、逐一の場面をとても楽しく味わうことが出来ました。
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そうした景色の描写がリアルであるのに対して、
登場人物らの人間性の現実味を欠いていることが、叔母のような立場の人にとって楽しめない要因になっていると考えます。
それはまた単に現実離れしているだけではなく、
ある固定化されたキャラクターを写したようであることがうんざりする理由ではないでしょうか。
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例えば、ヒロインはかくあるべきと可愛い仕草を観客に振りまきます。予定調和のように主人公を見て頬を染めます。
これらの物事に対して現実との差異を敏感に感じ取る人は、スクリーン上の物語が茶番に思えて仕方がないと思われます。
理想のまかり通らない世界に感動を見出すことを美しいと思うのでは、
理想の中の感動には薄い価値しか認められないことでしょう。
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声優に俳優の方を起用したことや、物語中に入る主人公らの語りの言葉という技術的な部分ではなく、
そうした物語の根幹が、ある特定の人々を寄せ付けないのではないでしょうか。
~後編へつづく
今回のまとめ
・作品を鑑賞した時、相反する意見を積極的に理解することが大切である。
・「天気の子」は、集団の持つ幻想・理想を根底に置いて構成されているが、感情移入の働きに全身を任せることができれば、良質なドラマを体験することが出来る。
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